地裁へ向かう植村さんと神原弁護士 |
開廷は午後3時だったが、早くも1時半には裁判所の玄関前に最初の傍聴者が並び(私だが)、開廷の30分前には100人をかなり超えて抽選となった。そこに植村氏が姿を見せた。重い書類のバッグを肩から下げたまま、支援者たちに笑顔で声をかける。緊張した様子がなくリラックスしている。抽選による当選番号がボードに張り出された。傍聴者が裁判所に続々と入り、定員91人の103号大法廷は満員となった。テレビカメラも入り、報道関係者用の13席も埋まった。
原告席の前面中央では植村隆氏が正面の被告席を見据える。そのかたわらに弁護団長の中山武敏弁護士、さらに原告代理人の神原元弁護士が最も裁判官席の近くに座った。3人の横と後ろには、総勢170人から成る大弁護団から20人近い弁護士が陣取った。
埋まらないのは、被告席だ。カラである。開廷しても、誰一人、出廷しなかった。
メディアによる2分間の撮影のあと、審理が始まった。裁判官は3人とも男性だ。うち裁判長と左陪席の二人は慰安婦問題での吉見義明教授の裁判と同じ構成だ。裁判長が手続きを説明し、被告側については「答弁書が出されているので、陳述したものとみなします」と述べた。
原告側の意見陳述となり、はじけるように立ち上がったのが原告代理人の神原弁護士だ。長身で48歳になったばかりの働き盛り。高い声でやや早口に、畳み掛けるように話した。
西岡氏の論文は、いわゆる従軍慰安婦の金学順氏の経歴について本人が言っていない経歴を原告が勝手に作ったなどと書いた。文春は、原告が親族の利益を図る動機ででっちあげの記事を書き、「とんでもない売国行為」の講義をしたという記事を書いた。同弁護士はそうした事実を指摘したうえで、「新聞記者が、利己的な動機で事実を改ざんしたとすれば、直ちに懲戒解雇事由に相当する重大な背信行為です。そうすると、『捏造』という事実の摘示は、報道人としての原告が社会から受ける客観的評価を著しく低下させるものであり、名誉棄損に該当すると言わざるを得ません」と主張した。
さらに神原弁護士は、被告側の答弁書の主張に反論した。被告側は「捏造」という表現は、事実を摘示するものではなく論評だ、と主張するが、捏造とは福岡高裁の判決にもあるように「意図的な事実の改ざん、でっち上げ」を言うもので、被告の西岡氏は「紙面を使って意図的なウソを書いた」と明確に書いている。挺身隊という表現を植村氏が勝手に書いたというが、当時の産経新聞も読売新聞も同じように書いており、それが当時は一般的だった、など一つ一つ反論した。
植村氏が裁判に踏み切らざるを得なかった動機として、インターネットで「売国奴」という人格攻撃を受け、勤務先に脅迫状を送られ、高校生の娘まで殺人予告を受けたことを挙げた。このように言論で反論したにもかかわらず、文春は「被害者ぶるのはおやめなさい」という態度をとり、原告と家族を救済するには「捏造記者」という言われなきレッテルを司法手続きによって取り除くしかないと述べた。
陳述の最後を神原弁護士は「裁判所の公正な審理をお願いしたい」と締めくくった。畳み掛けるような早口のため6分だった。
続いてグレーのブレザー姿の植村氏本人が証人席に立った。
用意した意見陳述書を読み上げた。最初に述べたのは、この2月にまたしても北星学園大学に送られてきた脅迫状のことだ。その最後には植村氏の娘の実名をあげて殺人予告を繰り返した。「必ず殺す。何年かかっても殺す。何処へ逃げても殺す。絶対にコロス」。この文面を植村氏はゆっくりと、苦いものをかみ殺すかのように述べた。この脅迫状のことを植村氏は娘に言えずにいたという。娘がどんなに恐れるかが怖かったからだ。しかし、やがて娘が「何か、おかしい」と気づいた。ここで植村氏は声を詰まらせた。眼鏡をはずして額に乗せた。「もう隠せませんでした。脅迫状が来ていることを正直に伝えました。娘は黙って聞いていました」。そのあと、植村氏は顔を上げ、怒りを込め、絞り出すような声で言った。「私はいま、24年前に書いた記事で激しいバッシングを受けています。しかし、そのときには生まれてもいなかった17歳の娘が、なぜこんな目にあわなければならないのでしょうか。私には愚痴をこぼさなかった娘が、地元札幌の弁護士さんに事情を聴かれ、ポロポロと涙をこぼすのを見たとき、私は胸がはりさける思いでした」
植村氏はさらに「週刊文春」の記事によって大学教員になる夢を破られたこと、そのさい「週刊文春」は大学側にわざわざ植村氏が「捏造記者」だと印象付ける質問をしたこと、そして西岡氏は植村氏を狙い撃ちして著書で攻撃したことを述べた。一連の名誉棄損の行為を挙げたあとに胸を張って言った。「私は捏造などしていません」
植村氏はさらに「週刊文春」が遺跡捏造疑惑を記事にしたため名誉教授が自殺し、遺書に「死をもって抗議します」と書かれていたことをあげた。遺族は名誉棄損で訴え、文藝春秋側は敗訴した。「あの事件で亡くなった名誉教授の無念が、痛いほどわかりました」と述べたあと、植村氏は「私の記事が捏造でないことを司法の場で証明したいと思います。今回の裁判は私の汚名を晴らし、報道の自由、学問の自由を守るための闘いでもあります。裁判長、裁判官のみなさま、ぜひ、正しい司法判断によって、私を、私の家族を、そして北星学園大学を救ってください。どうぞよろしくお願いします」と締めくくった。
証人席に立ってから、一礼して席に戻るまで12分。その目は赤かった。終始、声を詰まらせた植村氏にとっては長い時間だったろう。聴いている傍聴席の人々にとっても、ことに長く感じられた。傍聴席の100人近くは、身じろぎもせずに聴いていた。
裁判長は、次回の口頭弁論は6月29日午後3時からと告げた。被告が初めて出廷して答弁書について説明し、原告側の申し立てに対して認否を主張する場となる。これまでに出された以外に提出したいものがあれば、その1週間前に出すように、とも述べた。
神原弁護士は立ち上がって「被告側の主張に対しては次々回に反論します」と述べた。
閉廷は3時21分。第一回の口頭弁論は、わずか20分ほどで終わった。
意見を述べ終えてホッとしている植村氏に「泣いていたよね」と声をかけた。彼は「いや、僕は昔から蓄膿症なんです。慢性鼻炎で、3日前に声が出なくなってしまって焦りました。2年位に1度くらい、疲れたときに出る症状なんです。病院で薬をもらって飲んだら、今日、奇跡的に声が出ました」と話す。昔からシャイな性格で、涙をこらえながら述べたことを鼻炎のせいにした。
ところで、出廷しなかった相手方はどうなのだろうか。神原弁護士に聞くと、相手の代理人の喜田村洋一氏は「大物で有能な弁護士」だという。自由人権協会の代表理事であり報道問題に詳しく、あのロス疑惑の三浦和義氏の無罪を勝ち取った「やり手」である。人権派の弁護士がなぜ人権を奪った側に立つかと言えば、彼が文藝春秋の顧問弁護士をしているからだ。
手ごわい相手に対する勝算を聞くと、神原弁護士は「負けない」と一言、語った。
このあと、司法記者クラブで記者会見が行われ、さらに参議院議員会館で報告集会が開かれた。
(I記)